日本辺境論  学びについて

地デジを入れてから時折放送大学の放送をみていることがあります。それは興味を引く内容だから見るということもありますが、単にあのぼそぼそとした小さい話し声が他局と違って優しく感じられるということもあります。

ところで、放送大学を見ていると授業の合間毎に「学びは楽しい」という宣伝が入ります。
私も学ぶということは純粋に楽しい作業だと思っています。しかし、学ぶということは何か外に完成された体系があってそれを身につけていくやり方のような気がして、「それをどう活かしていくのか」ということが都度、よぎることがあります。学んだ事をどうすれば活かせるのかという疑問です。

内田樹氏の「日本人辺境論」は、たまたま図書館が休館でふらりと寄った書店で買って読んでみたのですが、予想外にも私の疑問に近いことについて論じていました。

この本は日本人とは何かという日本文化論の本なのですが、その特殊性を日本の辺境性というキーワードで読み解こうとするものです。辺境というのは昔は中国に対してであり、明治以降は欧米に対しての意味であり、辺境人にとって「起源の遅れ」は宿命とも言えます。

ゲームは始まっていて、私たちはそこに後からむりやり参加させられた。そのルールは私たちが制定したものではない。でも、それを学ぶしかない。そのルールや、そのルールに基づく勝敗の適否については(勝ったものが正しいとか、負けたものこそ無垢の被害者だとかいう)包括的な判断は保留しなければならない。なにしろこれが何のゲームかさえ私たちはよくわかっていないのだから。

日本人は「起源の遅れ」を宿命づけられているからこそ、それに対応して知識をキャッチアップしていくのが上手いのです。そして、その学びをシステムとして体系化したのが、
「道」という概念です。日本人は柔道、茶道などどんなことにでも「道」にしてしまいます。

私たちはパフォーマンスを上げようとするとき、遠い彼方に我々の度量衡では推し量ることのできない卓絶した境位がある、それをめざすという構えをとります。自分の「遅れ」を痛感するとき、私たちはすぐれた仕事をなし、自分が何かを達成したと思い上がるとたちまち不調になる。この特性を勘定に入れて、さまざまな人間的資質の開発プログラムを本邦では「道」として体系化している。

しかし、その「道」が日本人の弱点にも繋がります。それがまだ”自分はまだ道半ばである”という言い訳がいつでも成立してしまうという点です。その点が「学び」を起動する理由でもあるのですが、言い訳としてもなりたってしまい、真にそれを会得することの妨げになってしまうのです。

内田氏によると、そのような問題への回答は宗教家達によって与えられていて、「機」と呼ばれるものです。

「機」というのは呼びかけられたときに「何の用事だろう」と考えたりせず、「あっ」と答えるような、「電光石火」我を棄てて飛びこんでいく行為です。自分の事を勘定に入れないでまず動くという姿勢です。私は「呼びかけの入力があったまさにその瞬間に生成したものとして定義し直す」、私というものがその瞬間に新たに生成されたものとして対応する事で主観的な時間をコントロールすることです。この「機」によって、「どちらが創造者で、どちらが祖述者か」といった2項対立を消去してしまうことで、「学ぶ遅れのない」状態にまでもっていくことができるというのです。

さて、「機」によって私たちは飛び込むことができますが、そこに飛び込んで良いかどうかを決めるのは自身の直感です。

「機の思想」が当然すぎて言い落としているのは、私たちはどこで出会うのか、どこが「機」の現象が生成する当の場なのかを、あらかじめ知っているということです。私はそれを「先駆的に知っていること」というふうに術語化してみたいと思います。

内田氏は「学ぶ」ということについて次のようにまとめます。

「学び」という営みは、それを学ぶことの意味や実用性についてまだ知らない状態で、それにもかかわらず、これを学ぶことがいずれ生き延びる上で死活的に重要な役割があるだろうと先駆的に直感することから始まります。

「学ぶ力」とは「先駆的に知る力」のことです。自分にとってはそれが死活的に重要であることをいかなる論拠によっても証明できないにもかかわらず確信できる力のことです。

再び私の疑問に戻ります。学んだ事をどう活かしていくのか?その問いに対して内田氏の考えからは

それはわからないが、少なくともそう直感したのはあなただ。

ということになるでしょう。


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